瀬底島には沖縄考古学編年の前・中・後・グスク各期の道跡や貝塚があることから凡そ3~4千年程前から人間が住んでいたことが分かる。また、島の御獄のあるウチグシク近くの住居跡(瀬底貝塚)から出土する陶磁器などの遺物からそのころ既に集落が形成され、それが直接現在につながっていると考えられる。
三山時代には北山に、北山滅亡後は北山監守の治下にあり、今帰間切瀬底村として首里王府から脇地頭もおかれた。
近世に入り、1666年伊野波間切(本部間切)の創設に伴い本部間切瀬底村となり、次で1736年に祭温の山林政策により対岸の石嘉波村が瀬底村に移住させられ、以後1島2村制となったが1903年瀬底村に石嘉波を合併し、今日に至っている。
ウチグシク(東の御嶽又はムーチースネードクル)は村落の南東に位置する。 東側一帯は崖になっている。 ウチグシクは瀬底の村落発祥の地で、そこにはグシク時代の住居跡や瀬底貝塚があり村落はそこを腰当(クサティ)にして西北に広がっている。 また、島の主要な祭祀がそこで行われることから、瀬底村の中心になる祖神を祀る御嶽であろうと思われる。
ヌルヒヌカン。祝女火神はウチグシク入口にあり、通称ヌルルンチ(ノ口殿内)ともいう。南の方に向いて祠があり、南側に鳥居が建っている。祝女火神はノ口管轄で、村落のほとんどの祭祀に拝まれる。戦前は「お宮」とも呼ばれていた。
神アサギはウフジュク(大城家)の東側に在り神様を迎え招宴する場所。アサギ内の東側にタムト木と呼ばれる丸太がおかれ、神の依代である。祈願の時はタムト木時の上に線香を供える。戦前のアサギは茅葺きで、米軍空髪で焼失し、戦後セメントきに創り直した。神アサギの北側に根所と呼ばれる祠があり、根火神が祀られている。根所である大城家の東側にあるとこらから大底(大城氏)門中の火神であろうと思われる。瀬底のほとんどの祭祀で拝まれる。
メーヌ御嶽。ヘーヌ御嶽。前の御嶽は村落の南西方約五百米のこんもり茂った小丘陵(ウチンメー)にあり拝所の中では最南に位置する。ここは瀬底の七御の1つで「国守りの神」といわれるが詳しいことはわからない。5月と9月の大御願に七御嶽が拝まれるが、前の御嶽は最後に拝まれる。七御嶽の1つ。
瀬底区事務所の東方約50mの小高い処に土帝君祠がある。森一帯を敷均して三段にし、上段には土帝君祀(赤瓦屋根)を造って農神土帝君を祭り、中段に赤瓦屋根と石壁のアサギ、下段は砂利を敷いた広場がある。土帝君は尚敬王代に上間家二世前健堅親雲上が山内親方に従って三回渡唐(清)した際に清より農神士帝君の木像を請じて祀ったのが始まりといわれる。この土帝君は元々上問家(シークエーキ)のものであるが、大正の頃から村(字)も祭祀にかかわるようになり、旧2月2日の土帝君正月には区長も参加し、5月、9月の大御行事にも拝まれ、村落の七御嶽のひとつに数えられるようになった。
ウフニヤは島で最も高いウンバーリにある拝所である。祠は浄水場近くにあり、旧正月にウフシヘーと区長が年頭に当たって村人の健康と繁栄を祈願する。かつてウフニヤには日本や中国への貿易船の出入りを見守るトゥーミ(遠見番)の職がおかれ、伊江から入船合図の狼煙が上がるとウフニヤでも烽火をあげて読谷村、座間味に伝えたという。島では今も「遠見屋」の屋号が残っている。
若狭松御願。昔は、青々とした立派な松が在ったので、この名がついたという。ウフユミシヌグイの六日目、ワカサマチウグワンの日に拝まれる。仲田門中と関わりがある。
イリヌ(西の)御嶽。御一帯は木が繁茂し、深さ2~3mの窪地で周囲は石灰岩の口の広い洞穴になっている。そこにノロ墓の他三つの墓がある。ここは初代公儀ノ口の神を祀ってあるといわれる。この祝女は若い頃から公儀ノロをつとめた美女であった。ある年、豊作祈願の前に洗い髪(身をめる)をしていたら、折から唐泊に破泊していた船乗りに暴行され、宮鳥御願に身を隠した。ノロは暴行した船員に呪いをかけ、船は難破し全員死んだ。ノロはそれを見届けた後洞穴で生命を絶った。その神を祀ったのが西の御嶽であるという。
穀物豊作祈願所。拝泉の北方約八十程の森の中に深さ五~六米程の竪穴の洞穴があり、そこが「ティランニー」よばれる拝所である。以前はこの中で儀礼が行われていたが現在は上の方に小さな祠をつくり「お通し」をする。旧 5月、9月、11月のティラムヌメーの行事が行われる。以前は、ウフシヌヘー(男袖)とノロが梯子を使い、穴へ下りティラムヌメーが穀物の豊作祈額であることから一種の性交模擬儀礼で豊作祈願を行っていた。
航海安全祈願所アンチ浜、西方岩の上、瀬底大橋付け根北側下に在る。祠は他の拝所と異なり、全面が閉じられ、中に甕が納められている。離島であった為、本島と船での往来の際「トゥケーワタイ」と言って神に祈った。御嶽の下方には「浜番屋」が置かれ、明治末期頃から渡し守りをした岸本家がある。(現白浜食堂)
ケーガーとは飲料水をためる池の事で、拝所は上の池東側にある。旧9月9日に各門中のハー(拝井泉)を拝んだ後ケーガーにて水への感謝、村落の繁栄、健康を祈願する。以前は飲料水として利用されていたが、現在は農業用水として利用されている。
現在健堅区に隣接した石嘉波村を、1736年山村政策で、瀬底島、東側に移村させられた後、村民によって作られた拝所。石嘉波村落(イッチャフア)の東南方の小高い森一帯が、石嘉波村落の御嶽(タキサン)である。明治36年(1903年)瀬底村と合併し、現在に至る。御嶽(タキサン)は旧石嘉波の故地へのお通しであり、祭祀も現在に至るまで瀬底村落とは、別々に行われている。
第1条 この章は、先祖から受け継いできた豊かで美しい自然、伝統的集落、御嶽や拝所等聖地の保存、伝統芸能文化の継承と、安心・安全で静閉な生活を守ることを目的とする。
第2条 長い間培ってきた結(助け合い)の心、有難うという感謝の心、お年寄りや子供を大切にするやさしい心を持つ
第3条、私たちは、島を守る為に次のように取り組みます。
第4条 島の良さを印象づけるのに、観光関連業者の規律ある接遇が、大きく左右する。したがって、以下のルールを遵守しましょう。
瀬底島への来島者は、以下のルールを守るようにしましょう。
令和6年2月吉日
瀬底島の伝統的な祭祀行事に「ウフユミシヌグイ」がある。期間は旧7月18日のウカタビ(御崇べ)に始まり、20日ウフユミ(大折日または大号)、22日ハンプトウーキ(ハンジャレート)、23日ワカサマチウグヮン(航海安全祈願)、別りアシビ(別れ遊び)で終る。これは農村において古くから行われた「世果報予祝」と「祓い」の行事で新穀の米やなどで「神酒(ミキ)」や「ムーチー」を作って神前に供え、豊魚と豊作を感謝予視する行事である。瀬底のウフユミシヌグイで特徴のあるのは23日の「神仏」で、男神人が各家庭を巡って邪悪を破い、各家庭の安全祈願を祈願する。現在は各戸巡りはしないが男の世帯主が酒肴携帯でウチマン毛に集い、一度に祓いをうける。形は変わるが「祓い」の儀礼を残している。
島には伝統的な行事として「村踊り」と「網引き」がある。村踊りと綱引きは4年毎に交互に行われ、区の一大行事である。期間は旧8月9、11、13、15日の4日間アサギの遊び庭で行われる。村踊りは「踊り衆」と「棒衆」に別れ、最初に道ジュネー、ウチマン毛での潮巻(スーマキ)次いで舞台(バンク)で勇壮な棒の演技があり、その後午後5時頃から本番で午後10時頃獅子舞で幕を閉じる。
網引きは旧8月11日、島を南北に分け区事務所前の中道で行われる。網は雄、雌で作られる。当日は各組の道ジュネーの競演に始まり、午後4時頃、青年男子による支度とガーエーで気勢があがると網引きが始まり、島の人はもちろん参観者もこぞって参加する。
村踊りや網引きは本来豊作の感謝と予祝、村人の健康と村落の繁栄を祈願するものだが、現在ではそれだけでなく他市町村に在住する島出身者との交流の場にもなり、村落共同体の絆を深める行事としても大きな役割を果たしている。